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みんなの「駅伝競走」ブログ


何故欧米になく日本で隆盛?駅伝競走は日本民族の屋台骨¨和の精神¨が生んだ傑作であるから…

2016/11/07 09:49
中央公論新社発行 早坂 隆著 「最後の箱根駅伝」317ページ
  2016年9月25日初版発行


第1区…駅伝スタート

大正6年(1917年)4月27日 東海道五十三次関東関西対抗駅伝大会が挙行された。
主催 読売新聞社 東京遷都50周年記念
駅伝
大日本体育協会副会長 武田千代三郎(後の青森県、秋田県知事)が東海道五十三次を伝ってくる、宿場宿場をつなげる伝馬制をヒントに「駅伝」が良いと考えた。

出発点は京都三条大橋、到着点は東京上野恩賜公園、全長516キロ、23区間だった。

関東が紫、関西が赤のタスキをリレーして渡していく。
関東チームのアンカーは金栗四三、後の箱根駅伝の父と呼ばれたその人であった。

第2区…箱根駅伝の誕生↓

早稲田大学競争部の動きは河野一郎先頭に素早かった。
一郎の父河野治平は神奈川県会議員でもあり箱根町から冬場の客誘致の町おこし振興策を要望されていた。大学駅伝の創設話を聞きなんとしても箱根、小田原に誘致したかった。

大学駅伝のコースは@案東京=日光、A案東京=水戸、B案東京=箱根だった。
交通利便性、急峻な山登りコースでもあり、地元の熱心な誘致もありついに東京=箱根間駅伝が実現した。
河野一郎は各方面との折衝に非凡な力を発揮した。

早稲田大学競争部は大会の創設準備に率先して全面協力した。
コースの現地調査は、小田原高校渋谷寿光が担当した。
走破コースの道路事情、中継所の設置地点など詳細に調査し検討した。
彼は後東京オリンピックの審判団長を務めた。

大正8年 金栗は、長距離ランナーの強化策として新たな駅伝大会の必要性を報知新聞社や各方面に協力に訴えた。
同年、関東学生陸上競技連盟も発足した。現在の箱根駅伝の主催者でもある。
金栗→報知新聞→関東学生陸上競技連盟の絆が結ばれいよいよ箱根駅伝が誕生する。
当初金栗らはアメリカ大陸横断駅伝を構想していた。
その予選として国内の駅伝大会を始めるという未曾有の構想から生まれたのだ。

第3区…箱根駅伝スタート↓

大正9年(1920)2月14日〜15日 大会理念箱根から世界へ
参加大学→慶應義塾大学(青)、早稲田大学(海老茶)、明治大学(紫紺)、東京高等師範大学(黄)
スタートは午後1時に東京報知新聞社前→箱根はもう真っ暗。
小田原高校の生徒や箱根町青年団が松明を灯し提灯を持って並走協力した。
見物人は多少いる程度。優勝は高等師範、国立大学が第1回を制したのだ。

第4区…消えた箱根駅伝↓


大正12年9月1日発生した関東大震災にもめげず翌13年1月第五回箱根駅伝は挙行された。
沿道には応援の地元民で大賑わいになった。
駅伝を見なければ正月は来ないとまで言われる盛況に、
すっかり風物詩に成長した。

しかし時局は深刻に。中国の権益をめぐり日米は激しく対立した。
昭和15年…中国に向け軍需品武器弾薬兵糧品など輸送の車列が国道1号をひしめいていた。
軍需物資運搬車で東海道はフル稼働に。
東海道国道1号線を2日間使用する箱根マラソンへ国道使用許可が下りなくなった。

時局切迫の折、正月から屈強な若者が、学生の特権を翳して、わっしょい、わっしょい派知られてたまるか。
前線に兵士に申し訳ない。中止は致し方なかった。

国家存亡の非常時、軍は必死だった。
欧米は経済封鎖を強化していた。
厳しい練習に明け暮れていた選手達も残念至極そのものだった。
近代戦争は、軍事、財政、教育、工業生産等々国家総力戦の様相を呈していた。
学生達もこの総動員体制に引き込まれるのであった。
翌昭和16年12月8日日米は戦争状態に至った。


第5区…箱根駅伝の復活↓

関東学連はあきらめていなかった。
憧れの箱根駅伝を復活させよう。
文部賞運動体育極課長北沢清は陸上競技部出で、新聞社勤務を経て文部省入省、調整役を担った。省庁と学生たちの橋渡し役だ。
国道1号使用許可を動軍部に働きかけるか。作戦を練った。
陸軍戸山学校通いが始まる。

@長距離を走る駅伝は基礎体力を養い軍事教練としても妥当な協議である

A東京のスタート地点を靖国神社とし、到着地を箱根神社として、戦勝祈願の大会とした。

B多くの関係者の奔走の賜物。ついに国道1号の私用許可が下りた。
レース前に戦勝祈願の参拝も提案した。飛ぶ鳥落とす勢いの軍部に学生たちが互角に渡り合ったのだ。

昭和18年、3年ぶりに箱根駅伝大会は復活した。報知新聞は読売新聞に併合され読売が支援することに。

第6区 最後の箱根駅伝往路↓

昭和18年1月5日〜6日「紀元二千六百三年 靖国神社・箱根神社間往復 関東学徒鍛錬継走大会」が開催された。箱根駅伝が3年ぶりに復活し、゛最後の箱根駅伝゛になったのである。
出場校=青山大学、慶応義塾大学、専修大学、拓殖大学、中央大学、東京農業大学、東京文理科大学、日本大学、法政大学、立教大学、早稲田大学の11校。

午前8時 靖国神社大鳥居前から11名がスタート
走路は三宅坂→虎ノ門→三田→札の辻へ
鶴見にて最初のタスキが引き継がれた。1位は立教。
権太坂を越え戸塚中継点。立教1位。2位は日本大学。

最難関区だ。エース級を投入していた。法政に登録選手交代があった。登録していた今井が走れなくなり、なんとこれも大会直前のアクシデントで足を怪我。捻挫で入院治療を終え退院したばかりの補欠選手石黒信男が急遽走ることに。

快復状況、本人の意思を確認したうえでの当日変更だった。
痛み止め注射を打ち強行出場した石黒は一度死んで懸命に走った。
愛知県一宮の出身。
石黒はそれでも区間4位という立派な成績で大役を果たした。
法政は6位で平塚に飛び込む。
石黒信男は戦後、社会保険労務士資格を取得、社会福祉の道を走ることとなる。
地元愛知の陸上の盛り上げにも貢献。日本陸上競技連盟から秩父宮章も贈られた。平成元年永眠、人生を走りきった。

第7区 平塚中継点↓


馬入橋を渡るといよいよ平塚中継点。
日本大学が最初に飛び込んできた。2位に慶應、3位に立教。4位東京文理科、5位専修、6位が法政。
慶應ボーイ児玉孝正は2着で青と赤と青のストライプのタスキを受け取った。
慶應大学は箱根駅伝最初から出場したが優勝1度きりでライバル早稲田は既に7度優勝していた。

前を走るには一人、日本大学古谷清一。
大磯の西端まもなく二宮町のあたりでついに捉えた。
先頭に慶應が踊り出た。
酒匂橋を渡り小田原中継点に飛び込んだ。
岡博冶に繋いだ。
山登りはそのまま首位をキープし箱根神社ゴールで慶應大学往路優勝。
2位は日本大学。主将の杉山が4人抜く快挙。中央大学も末永がものすごいタイムで走り8位から5位に。当時の山の神は2人だった。
6位が早稲田。初出場の青山大学は11位、最下位だった。

第8区  最後の箱根駅伝 復路↓

5分45秒差昭和18年1月6日 凍てつく箱根神社前
参拝を終え戦勝祈願、午前8時30分慶應義塾スタート、日本大学が次にスタート。
小田原に最初に飛び込んだのは法制政、2人抜いたのだ、次が日大、平塚では慶應がトップ奪回、法政、日大、いよいよ終盤9区に、鶴見中継所に最初に現れたのは法政だ。2イアは慶應、3雄日大、3校のつばぜり合いが始まった。

最終10区のアンカー勝負に。3校が1つの集団決戦、品川駅前で日大が仕掛けた。桜田通りを首位のまま走る、追う慶應、法政、虎の門過ぎ三宅坂へ靖国の鳥居目指す、先頭を独走掏る日大永野も泣きながら、声援送る学生、校友も頬を濡らした。ゴールイン。

日大6度目の箱根駅伝優勝だった。
1位日本大学、2位慶應義塾大学、3位法政大学、4位中央大学、5位東京文理科大学、6位立教大学、7位早稲田大学、優勝した日大に区管賞者はいなかった。総合力の優勝。

第9区 学徒出陣 再び消えた箱根駅伝

大学生の徴兵延期措置が撤廃され学徒出陣体制に、もはや駅伝も陸上もなかった。
日大が優勝を飾った昭和18年を最後に日本は太平洋戦勝にまっしぐらとなる。
箱根駅伝の選手達も学徒出陣、特攻隊、シベリア抑留、飢餓の島、生死も瀬戸際があり、不条理があり、近しい人の死があった。それぞれが戦場に散った。
かって彼らがゴールを目指した靖国神社に今も眠っている。

大橋節夫ハワイアンバンドマネージャーに。
外車のデフィイラー現在92歳毎年欠かさず見ているが母校が出ない寂しいと語る。
タスキには先人たちの無数の哀歓が詰まっている。
凛とした布は瑞穂の国の正月をこれからも彩り続けるだろう。

第10区 駅伝
何故日本で生れ、かくも発展したのか
日本発祥の駅伝という協議は欧米では根付かなかった
欧米ではあくまでマラソンである

個を尊重する文化と和を大切にする文化、民族性の違いでもある。
個の成功のみ求めるよりも、属する集団のため汗を流すことを美徳とする 日本独特の精神文化が駅伝という競技を生み育てたのである。
タスキはその和の心の象徴なのである。
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