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ヒトラーと戦い、スターリンと戦い、オーストリアを独立再興させた皇太子の波乱万丈物語。

2016/09/24 07:20
1940年3月10日ルーズベルト大統領にオットーは初めて会った。

ハンガリーがヒトラーに蹂躙されないようトリアノン条約の修正を訴えた。
そして故国オーストリアは、ヒトラーとの戦いに勝ち、新しい戦後ドナウ連合の樹立する必要性を語った。パリでは亡命オーストリア部隊設立に奔走した。

オットー・フオン・パプスブルクはナチスの手配書により最も逮捕したい西側陣営の人物に挙げられていた。

チャーチル首相と会い、オットーは「オーストリアは戦争犠牲者であり戦争責任を負わない。オーストリアは独立国家として再興させなければならない」事をメモにして渡した。

ソ連のスターリンはオーストリアを併合すべく動いていた。
オットーはオーストリアの米英仏ソの4カ国による占領に尽力した。
そして西側に留まることが決定した…

朝日新聞社発行 エーリッヒ・ファイグル著北村佳子訳「パプスブルク帝国最後の皇太子」389ページ 

 ヒトラーと戦い、スターリンと戦い、オーストリアを西側陣営の独立国家として再興させた皇太子の波乱万丈の物語。



訳者北村佳子(早稲田卒)あとがきから…

本書の主人公、オットー・フォン・パプスブルク大公と田中清玄は長年交流があった
田中を通して日本の政財界の重要人物にオットーレポートが届いていた

ナチスに追われた多数の亡命オーストリア人がスペイン通過ビザ取得するのを大公は懸命に奔走し多くの命を救った事実はあまり知られていない。

ドイツの一部になっていたオーストリアを戦後ドイツから切り離し、独立国家として復活させるべくオットー大公は全力で連合国首脳と掛け合った。

ソ連共産主義の脅威から東欧諸国のため力を尽くし、ベルリンの壁崩壊にも表舞台でなく地道な活動から導いた。
実にドラマテックなオットー大公の人生でした。

平成28年5月 平塚稲門会春の総会において北村氏から本書の紹介をいただく。

○田中清玄とオットー大公

オットー大公とハイエクとの親交[編集]

田中は池田成彬の紹介で、汎ヨーロッパ主義者のリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーと汎アジア主義者の鹿島守之助と親交をむすび、汎ヨーロッパ運動を推進していたハプスブルク=ロートリンゲン家家長のオットー大公を紹介された。

オットー大公は戦前にオーストリア皇位継承権を放棄して、反ファシズムを表明、戦後は欧州統合運動の推進役となった。経済学者フリードリヒ・ハイエクにはオットー大公から紹介された。
田中はオットーに勧められ、1961年自由主義運動を推進するためにハイエクが組織したモンペルラン・ソサイエティーに入会した。

ハイエクは社会主義とケインズ経済学の両方を批判していて、田中は、とくに人為的な信用によって一時的に景気を上昇させても、それによっておこる相対的な価格体系の混乱はやがて景気を反転させるという思想に共感していた。

1974年2月10日、ハイエクのノーベル賞授賞式ではパートナー役をつとめる。
メインテーブルに招かれた日本人は田中清玄だけだった。
1978年、田中は来日したハイエクを伊豆の自宅に招き、奈良に付き添って刀工の月山貞一のところを訪れたり、ハイエクと人類学者・今西錦司の対談を企画[注釈 3]。1991年12月4日にはオットーと宮沢喜一首相の会談を実現させた。


田中清玄を書かれたホームページから
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