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zoom RSS 日本初のオペラを主演した戸倉ヤマの出身地平塚で市民オペラ上演さる。

<<   作成日時 : 2009/01/09 22:34   >>

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平成21年1月8日 タウンニュース誌4面 市民オペラ喝采

平塚市文化財団発足10周年を記念した、平塚初めての市民オペラ「カルメン」が先月21日、平塚市民センターで上演された。
会場は1200人の観客で埋まり、プロのキャストと、公募で選ばれた60人の市民の熱演に大きな拍手が送られた。
また大蔵律子市長も第4幕に市長役で特別出演。
妖艶なドレスに身をまとった市長の登場に会場は盛り上がった。
同オペラは平塚在住の声楽家岩崎由起子さんが総監督を努め、約1年かけ稽古を積んできたもの。
「平塚初めての本格的なオペラだが迫力があった。これからも続けていければ」と来場者の声。

日本初のオペラは平塚出身 吉川(戸倉)ヤマが主演だった。

時は…1903 明治36年7月23日

舞台は…東京上野に明治23年に創建された奏楽堂2階ホール

奏楽堂は日本最古の木造の洋式音楽ホールで移築後、国の重要文化財に指定(昭和63年1月)されました。
東京芸術大学音楽学部の前身である東京音楽学校の施設だった奏楽堂は、昭和62年に台東区の手で現在地に移築保存され、一般に公開されるようになりました。
二階にある音楽ホールは、かつて滝廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を歌い、吉川(戸倉)ヤマ、柴田(三浦)環ら日本人による初のオペラ公演でデビューを飾った由緒ある舞台です

演じたのは…

配役は初の女性オペラ歌手たちと高く評価されているオルフェオ役が音楽学校を卒業したばかりの吉川ヤマ(平塚市金田の出身),アモーレ役は同じく卒業生の宮脇僊(せん),百合姫(エウリディーチェ)役は在校生の柴田環となっている.

柴田環は後に『蝶々夫人』のプリマドンナ,三浦環として世界に知られるようになる.

戸倉ヤマ…

主演した吉川ヤマはその後学習院で音楽の教師となり戸倉姓となる。
ヤマの出身地平塚市金田の金田公民館に健民碑がある。
この地を天皇皇后両陛下が行幸した際、皇后陛下は集まった出迎えの人々の中にかっての学習院での恩師戸倉ヤマの姿を見、恩師の姿に懐かしさを覚え歌を詠んだ。

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まなびやにはげみし頃を思い出でて
なつかしく見る 老いし師の君

昭和30年11月1日 第10回国民体育大会の際 天皇皇后両陛下は当地を訪れた。
戸倉ヤマの住む寺田縄のある旧金田村は、村人こぞってバレーボールを健康増進に取り入れ生活改善モデル村健民の村として高く評価されていた。
健康で明るいこころ豊かな村つくりを励ます天皇皇后両陛下の行幸だった。
この村だからこそ日本初のオペラ主演の吉川(戸倉)ヤマは育ったのだ。

上演裏話…

1902(明治35)年、東京音楽学校の学生による自主組織「オペラ研究会」と東京帝大の学生による自主組織「ワグネル会」が中心となって歌劇研究会結成し、ワーグナーのオペラ「タンホイザー」の上演を計画する(があきらめて「オルフォイス」に変更したようである)。
1903(明治36)年7月23日、東京音楽学校歌劇研究会により、グルック作曲のオペラ「オルフォイス」上演(ノエル=ペリー指揮、ピアノ伴奏ケーベル。柴田環、吉川ヤマ等の出演)。
これが日本語による初の歌劇上演とされる。
指揮は音楽学校嘱託講師のノエル・ペリー,ただしオーケストラ伴奏ではなく,フォン・ケーベル博士のピアノ伴奏だった.
明治三十六年七月二十三日の東京音楽学校歌劇研究会によるグルックの《オルフォイス》がその嚆矢といっても差し支えないであろう。後の世界的プリマドンナ三浦環(このときは柴田姓)が出演している。
三浦環は、同年の三月同じ奏楽堂で行われた学友演奏会でメンデルスゾーンの《エルサレム》を独唱し、好評を博していた。
 このオペラの上演は学生の間で計画されたものである。その学生らの一人、渡辺康三という学生がその費用一千円負担することで実現した。舞台装置は美術学校の先生が協力した。
出演者は、ソプラノ柴田環(ユリデイス)、アルト吉川やま子(オルフォイス)、メゾ・ソプラノ宮脇せんの主役の女性三人と合唱男女十六人。
まだ、本格的なオーケストラはなかったので、哲学者のケーベルがピアノ伴奏をし、指揮・演出はノエル・ペリーが担当した。
オルフォイスは、妻ユリディスが蛇に噛まれその毒で死んでしまったことを痛く悲しむ。そこへ愛の神アモールが現れる。
彼はその神の力をかりて愛すべき妻を取り返すために天国を目指す。その途上で獣に妨げられるが、歌のもつ威力によって駆逐するというストーリーで展開する。三浦環のソプラノは、艶やかで瑞々しく歌の力、芸術の力によって悪魔をも征するということも証明するうえで十分であった。

しかし、それ以後、東京音楽学校では、昭和七年七月二日のプリングスハイム指揮の《デア・ヤーザーガー》(《イエスマン》)以来オペラは上演されることはなかった。尚、このステージ(東京音楽学校奏楽堂)では、東京音楽学校が期待するバリトンの増永丈夫(藤山一郎)がテノール音色をいかして主役のテナーを務めている(東京芸術大学百年史,演奏会編第二巻)。

参考 日本のオペラ史
日本における本格的歌劇団の誕生といえば、明治四十四年八月に作られた帝国劇場の歌劇部である。
帝国劇場は、明治四十四年三月一日に開場した。
欧米諸国のような国立劇場の必要性を感じ、西園寺公望の後押しで、渋沢栄一、大倉喜八郎、益田孝らの財界人の手によって建設された。

当然、イタリア、ドイツのようにオペラが上演できるという展望と理想があってのことだった。帝国劇場は、パリの国立劇場を模倣した純洋風の建築物で館内は定員一千七百の全部椅子席だった。

欧米並の舞台芸術とその聴衆という意図があったことが容易に理解できる。また、明治三十七年に三越呉服店が欧米風のデパートメント=ストアーをめざし、多くの食堂・喫茶室を設けたので、この帝国劇場の開場によって、「今日は三越、明日は帝劇」というキャッチフレーズも生まれ流行した。

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